掃除のたびに手が止まる。私たちが卒業アルバムに抱く「小さなモヤモヤ」
休日、重い腰を上げて部屋の掃除をしているとき。
クローゼットの奥や、押し入れの天袋の隅っこ。
そういう「普段は絶対に開けないゾーン」から、こいつは突然顔を出す。
「……あ、これね」
そう、卒業アルバム。
分厚くて、やたらと重くて、埃をかぶっている、あの青や緑の布張りの塊。
この瞬間、人間の脳みそは一瞬で思考停止する。
「捨てる・残す」のジャッジを下す前に、手慣れた動作でそれをまた元の場所へ、何食わぬ顔で押し込もうとする。
……いや、ちょっと待て。
本当は、こんなスペースを取るだけの得体の知れない重荷、さっさとどうにかしたいっていう本音が心のどこかにあるくせに。
「いつまでも場所を取っておいてほしくない」
「正直、邪魔だな」
って微かに思っているくせに。
私たちは、「アルバム=思い出の聖域だから触れてはいけない」という謎の免罪符を使って、考えることから逃げている。
思考停止で現状維持にダイブしているだけだ。
でも、魔が差して、ふと表紙を開いちゃったら最後。
その瞬間に掃除のルーティンは完全に停止する。
雑巾を持ったまま、床にぺたんと座り込むハメになる。
ページをめくると、そこにはタイムマシンに乗ったかのように、当時の空気がぶわっと蘇ってくる。
「うわ、このダサいジャージの着こなし何なの」
「この時、隣のクラスのあいつに片思いしてたっけ……今思えば何であんな奴が好きだったんだろ、若気の至りもいいところだな」
なんて、ひとりでニヤついたり、冷や汗をかいたり、妙な感傷に浸ったりする。
そう、これだ。
これがあるから、卒アルの一番の価値は保たれている。
あの頃の自分に引き戻されて、胸がキュッとなるこの感情のために、この重たい本は収納の片隅に生き残っている。
……はずだった。
なのに。
一通りノスタルジーに浸りきって、現実のフローリングの冷たさに現実に引き戻されたとき、急に冷めた空気が部屋を支配する。
「……で、これ、いつまで持ってるわけ?」
そう。
この疑問が頭をよぎった瞬間から、さっきまでの甘酸っぱい思い出は一気に「ただの巨大な荷物」へと姿を変える。
まさか、おじいちゃんおばあちゃんになるまで、いや、自分の終活のその日まで、この重くて分厚い本を我が家の貴重な一等地で熟成させ続けるのか?
いやいや、そこまで執着あるか?って自問自答が始まる。
でも、
「じゃあ今すぐゴミの日に出せるか」
と言われたら、絶対にそんな冷徹な決断はできない。
写真っていうのは二度と取り戻せない希少価値の塊だし、それを捨てるための決定的な「必然性」や「大義名分」が今の自分には見当たらないからだ。
「まあ、いっか。今すぐ困るわけじゃないし」
結局、私たちはまたそのアルバムを元の暗い場所にそっと戻す。
そうやって、今日のところは見て見ぬふりをして蓋をする。
だけど、心のモヤモヤだけは確実に居座り続ける。
「これ、確実に我が家の収納の空き容量を削り続けている厄介な存在だな……」
という小さなトゲを、心に刺したまま。
「終活まで持つ?」捨てられない理由と、確実に減り続ける我が家のキャパシティ
さっき、掃除の手を止めてページをめくったあの時間。
当時の空気に浸って、勝手に胸がキュッとなって、なんだか少し切なくなったあの感覚。
あれ自体は決して無駄じゃないし、むしろあの瞬間のためにこそ、あの分厚い卒アルは今まで生き残ってきたんだと思う。
そこは全肯定したい。
思い出に浸る権利は誰にもある。
……でもさ。
じゃあ、その「感動」と「この分厚い本の存在」が、これから先もずっと我が家のクローゼットや押し入れの一等地を無期限に占拠し続けることは、果たして正解なのか?
ここに、私たちが無意識にスルーしてきた強烈な矛盾がある。
「じゃあ、このアルバム、いったいいつまで家に置いておくわけ?」
ふと、そんな冷徹な疑問が頭をよぎる。
まさか、定年を迎えても、シニアになっても、そして自分の人生のエンディングノートを書くような「終活」のその瞬間まで、この埃をかぶった重荷を抱え続けるのだろうか。
もし終活のタイミングで手放すことになるのだとしたら、ぶっちゃけ今持つのと何が違うんだ?
いや、むしろ歳をとってからの片付けなんて、今よりもっと気力が湧かなくて、結局子供や家族に、
「これどうすんの……」
って言われてゴミの山として丸投げされて終わりじゃないか?
そんな想像が頭をよぎった瞬間、背筋がちょっと冷たくなる。
でも、そう頭で分かっていながら、やっぱり「今すぐ捨てます」とはならない。
写真っていうのは、デジタルデータと違って「二度と戻らない当時の空気感」や「その時にしか撮れなかった表情」が物理的な紙に焼き付いている。
それにまつわる記憶や、もう二度と戻らない青春時代という希少価値が詰まっているからこそ、「どうしても」って捨てる必然性を自分に見出せない。
「別に、今すぐ生活に支障が出ているわけじゃないし……」
「捨ててしまってから、『やっぱりあの時を見たかったな』って後悔するのが怖いし……」
そうやって、私たちは自分自身に都合の良い言い訳を並べ立てて、結局は元の現状維持へと逃げ込む。
だけど、どれだけ目を背けようと、現実として突きつけられている事実が一つだけある。
それは、
「このアルバムが存在している分だけ、確実に我が家の収納の空き容量が狭くなっている」
ということだ。
使わない、でも捨てられない。
そんな思い入れの塊が、我が家の限られた空間の収納力を少しずつ、しかし確実に、長年にわたって蝕み続けている。
この重苦しい現実から、私たちはいつまで目を背け続けるつもりなんだろう。
思い出は捨てなくていい。けれど、収納スペースを無期限に差し出すのはもったいない
結局、世間の片付け論とかミニマリストの意見を見ていると、
「使わないなら捨てろ」
「思い出の品なんて写真に撮ってデータ化してしまえばいい」
なんて、冷酷な正論が飛んでくるわけです。
いやいや、それができたら苦労しないよ!って話。
データ化?
ドライなスキャン画像だけであの当時の空気感が蘇るかっつーの。
ページをめくるときの紙の感触とか、あのどうしようもなかった若さの匂いとか、そういう情緒まで全部捨てましょう、って言うの?
かといって、このまま我が家の収納の一等地を無期限に占拠され続けるのも、正直納得がいかない。
ここで私たちはいつも
「捨てるか、無理して持ち続けるか」
っていう極端な二者択一のリングに立たされて、どっちを選んでもモヤモヤが残るという不毛な試合を繰り返している。
でも、よくよく考えてみてほしい。
そもそも、この二者択一自体が間違っているんじゃないか?
思い出は絶対に捨てたくない。
あの頃の自分との絆だって、簡単に手放したくない。
そこは1ミリも妥協しなくていい。
……だけど、毎回の掃除のたびに
「またお前か……」
とうんざりしながら視界に入ってくる必要、なくない?
そもそも、卒業アルバムだけでなく、日用品や服、細々とした荷物の置き場所や収納ルールそのものに頭を悩ませているなら、
こちらの記事:
荷物の収納場所はどう決める?ルールに縛られない快適な部屋の作り方
も一度覗いてみてほしい。
使用頻度や重さのパズルに苦しみ、隙間に押し込むしかなかった現実の正体が、きっと見えてくるはずです。
話を戻そう。
私たちの本音はこう。
「思い出は大切にしたい。でも、今の生活空間の邪魔にはなってほしくない」
この一見すると矛盾しているようなワガママ。
これって、実はめちゃくちゃ自然な感情だし、人間の心理として至極まっとうなことなんじゃないか?
大事なのは、思い出を殺すことでも、部屋を犠牲にすることでもない。
じゃあ、この「思い出を手放さずに、でも視界から消す」という一見不可能なワガママを、一体どうやって両立させればいいっていうんだろう?
タイムカプセルのように。日常から手放さずに「視界から消す」スマートな保管術
「思い出は絶対に手放したくない。
でも、我が家の収納スペースを無期限に差し出すのはまっぴらごめん。
毎回の掃除のたびに視界に入ってきてため息をつかされるのも、もうウンザリだ」
――この一見するとわがままで矛盾した私たちの本音。
これをきれいに、そして完璧に解決してしまう裏技が、実はちゃんと存在する。
それが、「日常から物理的に手放さずに、でも完全に視界から消す」という保管のパラダイムシフトだ。
思い出してください。
子どもの頃、校庭の隅っこに埋めた「タイムカプセル」のワクワク感を。
あの時、私たちはタイムカプセルを「捨てた」わけじゃない。
むしろ、すごく大切だからこそ、普段の生活圏から離れた場所に安全に眠らせたはずだ。
そして、日常の生活スペースはすっきりとキープしたまま、何年も忘れて過ごし、ふと思い出したときにまた掘り起こす。
あの感覚。
あれと同じことを、現代の大人になった私たちがやればいいだけの話なのだ。
「でも、そんな都合の良い場所なんてある?」
って?
そりゃそうだ、家の中を探したって、クローゼットや押し入れのキャパシティは決まっているんだから。
だったら、家の中以外の場所に「我が家の第2のクローゼット」を作っちゃえばよくない?
ここで登場するのが、宅配型トランクルームの「minikura(ミニクラ)」という選択肢だ。
やり方は拍子抜けするほど泥臭くなくて、拍子抜けするほどスマートだ。
専用のダンボール箱に、あの重くて分厚い卒業アルバムや、捨てられないけど普段はいらない思い出の品をポンポンと詰めて、集荷に来てもらうだけ。
たったこれだけで、重労働をして重い荷物を遠くの倉庫まで運び出す必要すらない。
しかも、すごいのはここからだ。
預けたダンボールの中身は、スマホのアプリを開けば1点ずつ写真で管理されるプランを選択することもできる。
つまり、
「あれ、どこにしまったっけ?」
と記憶の彼方に消え去るわけじゃない。
いつでも
「あ、あの時のアルバム、今ちょっと見たいな」
と思ったら、スマホからポチッと取り出しの依頼をするだけで、自宅までまた戻して手元で見ることができる。
普段の生活空間には一切ノイズを置かず、クローゼットの貴重な一等地はガラリと空いたまま。
なのに、思い出は1ミリも失われていないし、いつでも「タイムカプセル」のように自分の手元に取り戻せる。
「どうしても捨てられないものがある」
という自分のナイーブな感性を否定しなくていいし、
「部屋をすっきりさせたい」
という現実的な願いもあきらめなくていい。
毎回の掃除のたびに
「またお前か……」
とげんなりさせられたあの卒業アルバムに、これからは
「じゃあ、ちょっと実家(専用のきれいな倉庫)に行っててね」
と、スマートに定数外の指定席を用意してあげられる。
そんな未来の選択肢を知ってしまったら、いつまでも押し入れの奥底で埃をかぶらせたままでいる理由なんて、もうどこにもない気がしませんか?


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