映画「8番出口」の地下通路を歩くような、出口のないモヤモヤ
なんか、部屋の片付けをしようと思って押し入れを開けた瞬間、もうその時点で試合終了、そんな気持ち。
どこから手をつければいいのか分からない。
目の前にあるのは、いつか友達からもらった手紙とか、旅行先で買ったよくわからない置物とか、昔の雑誌とか。
まるで、あのホラーゲームの「8番出口」みたいに、同じような景色(散らかった部屋)の地下通路を延々とぐるぐる歩かされている気分になる。
異変を見つけて引き返せばいいわけじゃない。
どこを見渡しても「異変(散らかり)」だらけで、どこに向かえば正解なのか出口が全然見えない。
ただただ、そこに立ち尽くして、ため息をつくだけ。
あー、もうやだ、閉めよ、って現実逃避して扉を閉める。
そんなことの繰り返し。
掃除が嫌いなのは「ただの怠慢」ではないという違和感
世間の片付け本とか、インスタの綺麗なお部屋を見ると、
「掃除なんて習慣です」
「要らないものは1秒で捨てましょう」
「床にモノを置かないだけで人生が変わる」
とか、なんかこう、すごく正論がドヤ顔で飛んでくる。
「飲み終えたペットボトルはゴミ箱へ」
そんなの、小学生でもわかる。
誰だって頭では分かってる。
汚い部屋より綺麗な部屋のほうが気持ちいいことくらい、百も承知。
なのに、私がいつまでも動けないのは、「ただめんどくさい」からだけじゃない気がするんです。
もっと別の、心の奥のひっかかりがある。
掃除ができない自分を責められるたびに、
「いや、私のめんどくささはそういう単純な怠慢じゃないんだよな……」
って、心の中でめちゃくちゃ反論したくなる。
でも、それをうまく言葉にできないから、ただ「ダメな人間」のラベルを貼られて終わりになる。
この悔しさ、誰か分かってくれないかな?
「感受性が高い人=掃除が苦手」という、自分の中だけで渦巻く言い訳と独自の公式の提示。
こんなこと言ったら、
「また言い訳してるよ、この人」
って笑われるかもしれないけど。
でも、あえて言わせてもらうと、
世の中の「掃除が秒で終わる人」と、私みたいに「モノの前で一歩も動けなくなる人」の決定的な違いって、脳みその構造……いや、もっと言うと「感受性の違い」なんじゃないかって思ったりしています。
あえて乱暴に言っちゃえばこう。
感受性が低い人 = 掃除が得意(ポイポイ捨てられる)
感受性が高い人 = 掃除が苦手(モノの背景を勝手に背負っちゃう)
ゴメン、これ完全なる独り言。別に科学的根拠なんかない。
だからそんなに怒らないで。
でも、そうでも思わないと、自分のこの「捨てられない情けなさ」のメンタルが保てない。
まだ着れる服、捨てたら二度と手に入らないアクセサリー、ページをめくると当時の匂いが蘇る本……。
そういうものたちの向こう側にある「過去の自分」や「相手の気持ち」まで勝手に受信しちゃって、ハサミを入れるみたいにゴミ袋に放り込むことがどうしてもできない。
この「感受性のせいにしてしまう自分」と「でも現実の散らかりには負けたくない自分」の狭間で、今日も脳みそが勝手にショートを起こしている。
なぜ「まだ使えるモノ」を前にすると、脳がフリーズしてしまうのか
部屋の真ん中にポツンと座り込んで、目の前にあるダンボール箱をじーっと見つめる。
中に入っているのは、昔着ていたお気に入りの服とか、友達からもらった雑貨とか、旅先のパンフレットとか。
まだ全然きれいだし、破れてもない。
機能としては100パーセント現役で使えるのに、今の私の日常ではもう使わないものたち。
これ、なんで目の前にすると一瞬で思考がストップしちゃうんだろうね。
触った瞬間に頭が真っ白になって、時間が止まる感覚になる。
ゴミ箱行きにできる「ただのゴミ」と、感情が乗った「思い出の品」の決定的な違い
「ただのゴミ」って、本当に優しい存在だよね。
飲み終えたペットボトル、使い切ったボールペン、汚れたティッシュ、期限切れのコンビニのレシート。
これらは迷いようがない。
だって、役割を完全に終えているから。
「今までありがとう、お疲れ様」
って、何の罪悪感もなくゴミ箱にポイってできる。
でも、「思い出の品」は性質が全く違う。
物理的にはまだ綺麗に残っているのに、今の私の生活スペースを圧迫している。
この「まだ使えるのに手放さなきゃいけない」っていうねじれが、心の急ブレーキを踏ませてる。
モノを捨てる行為は「自分の過去や感情を切り捨てる」ことと同義だから苦しい
結局、モノを捨てるって、ただ部屋の床面積を広げる作業じゃないんだと思っちゃう。
私にとっては、「あの頃の自分の楽しかった記憶」とか、「あの人にもらった時の温かい気持ち」とか、そういう自分の過去や感情を「もういらないゴミです」って切り捨てる作業に感じられる。
そんなの、あまりにも冷酷じゃない?
そんなドライな人間になりたくないって心が拒絶するから、ハサミを持つ手がどうしても震えて動かなくなる。
あれこれ考えすぎて脳が疲れ、「四次元ポケットでもないと無理だ」と片付けを中断してしまう絶望感。
こんなふうに、一つの服、一つの雑貨を手に取るたびに、いちいち感情移転して、脳内でドラマを再生しちゃうから、エネルギーの消耗がハンパない。
もう、あれこれ考えすぎて脳みそが完全にショートする。
「あー、もう分かんない!
こんなの、ドラえもんの四次元ポケットでもないと絶対に解決しない!」
って、途方もない絶望感が押し寄せてくる。
で、結局どうなるかっていうと、脳のバッテリーが切れて、
「今日はもう無理、また今度やる」
って現実逃避。
ダンボールの蓋をそっと閉めて、見なかったことにして押し入れの奥にドカンと押し込む。
これが、私の片付けがいつも途中で終わる理由。
「四次元ポケット」がなくても、思い出の行き場は見つかる
押し入れの扉をガチャッと閉めて、
「あーもう無理!」
ってベッドに倒れ込んだはいいものの、心のどこかではモヤモヤは消えてない。
「このままじゃいつまで経っても部屋は片付かないし、万年床のままだし……」
って、自己嫌悪のフルコンボ。
でも、ふと思った。
ドラえもんの四次元ポケットなんて現実にあるわけないし、魔法みたいに一瞬で部屋が片付く奇跡なんて起きない。
じゃあ、私たちが抱えているこの「捨てられない悩み」って、本当にどうしようもないものなんだろうか?
すべてを「捨てるか・残すか」の二者択一にするから、心がすり減る
よく考えてみれば、私がここまで苦しかったのって、すべてのモノに対して「今すぐ捨ててゴミにするか」「自分の生活圏内にずっと置いておくか」っていう極端な二者択一を迫られていたからじゃない?
白か黒か、0か100かでジャッジしようとするから、
「いや、これはまだ思い出があるからゼロにはできない……でも今の部屋には置けない……ううう……」
って、脳みそが過負荷を起こしてフリーズしちゃう。
裁判官気取りで、自分の思い出を次から次へと言い渡していく作業なんて、そりゃあメンタルがすり減って当然。
「手元に置いておく必要はないけれど、手放したくもない」というグレーゾーンの肯定
ちょっと待って、別に「手元(すぐ目の届く部屋)に置くか」「ゴミとして処分するか」の2つしか選択肢がないわけじゃないよね。
「今の自分の生活スペースからは外したい。でも、冷酷にゴミ袋へ放り込むのも絶対に嫌だ」
この、誰しもが心の中に持っている「手元に置いておく必要はないけれど、手放したくもない」っていう絶妙なグレーゾーン。
ここを肯定してあげていいんじゃない?
白黒つけられない自分を責めるんじゃなくて、
「グレーのままで一旦キープできる場所」
があったら、それだけで心の負担ってめちゃくちゃ軽くなる気がする。
たとえば、学生時代の思い出の象徴みたいなもの……そう、みんな一度は悩むあれ。
学校を卒業してからというもの、本棚の奥でずっと重たい存在感を放っているヤツ。
「これ、いつまで持っていればいいの?」
って思いつつ、やっぱり捨てられない代表格である「卒業アルバム」なんて、まさにこのグレーゾーンの最たるものだ。
もしあなたが今、
「アルバムみたいなどうしても場所をとる思い出の品を、みんないったいどう扱ってるんだろ……?」
って気になっているなら、こちらの記事もちょっと覗いてみてほしい。
無理に捨てたり電子化したりしなくても、スマートに保管できる方法があるみたいだから。
参考記事:卒業アルバムはいつまで保管する?思い出を捨てずに片付ける賢い方法
空想から現実へ。「捨てる」「残す」の境界線をどう引くか
いつまでも
「あー、私の感受性が高すぎるからいけないんだ」
とか、
「四次元ポケットがあればなぁ」
なんて空想の世界に逃げ込んでいても、目の前のダンボール箱は消えて無くなるわけじゃない。
現実の部屋は散らかったままだし、ホコリは溜まるし、夜中にふと足の小指を本にぶつけて悶絶する。
ファンタジーに浸って傷つかないように言い訳するのはそこまでにして、そろそろ現実の地面に足をつけなきゃいけない時がきたみたい。
だって、このままじゃ本当に何も変わらないから。
感受性のせいにしたり脳を疲れさせたりするループから抜け出すタイミング
「私は感受性が豊かだから、モノの背景まで背負っちゃって捨てられないの……」
そうやって自分を肯定してあげることは、あのときのメンタルを保つためには必要だったかもしれない。
でも、いつまでもその「感受性の言い訳ループ」に閉じこもっていると、脳が疲れるだけで、結局は何も決断できないまま時間だけが過ぎていく。
それに気づけたってことは「今までとは違う異変!」、もうあの出口のない地下通路から一歩抜け出す準備ができたってことじゃないかな。
自分の心の癖を客観的に見られるようになっただけでも、最初の頃よりは少しだけ視野が広がっているはず。
スッキリした空間の気持ちよさと、思い出の尊さを両立させるための「ベターな判断基準」
じゃあ、具体的にどうすればいいのか。
ここで大事なのは、「思い出の品をすべて冷酷に捨てること」でもなければ、「今の生活スペースを犠牲にしてすべて抱え込むこと」でもない。
その両極端のどちらかを選ぶ必要なんて、最初からなかったんだ。
「スッキリした空間で深呼吸したい」っていう気持ちのよさも、「昔の自分が大切にしてきた思い出を雑に扱いたくない」っていう尊い気持ちも、どっちも嘘偽りのない自分の本音。
だったら、その両方をちゃんと満たせる「ベターな判断基準」を見つければいい。
ゼロか100かで悩むのをやめて、思い出はちゃんとキープしたまま、私の日常のスペースだけをふわりと軽くする方法。
それさえ分かれば、あの果てしない片付けの沼からも、やっと抜け出せそうな気がします。
空間を諦めない。「預ける」という新しい選択肢
ゼロか100かで悩むのをやめて、思い出の品を「捨てる」「残す」以外の方法を探す。
そう決めたはいいけれど、じゃあ具体的にどこに置く?
実家の押し入れはもう満杯だし、自分の部屋はワンルームでクローゼットもカツカツ。
貸しトランクルームを借りるほどお金をかけるのも、なんか大げさでめんどくさい……。
そうやってまた諦めかけていたんだけど・・・、
よく考えたら、私たちが本当に欲しかったのは、
「自分の部屋を広くスッキリさせること」
と、
「大切な思い出を手元(あるいは安心できる場所)に残しておくこと」
の、両方なんですよね。
空間を犠牲にする必要なんてもう、どこにもないんだ。
無理に捨てて後悔する前に知りたい、現代のスマートな保管術
「あー、あのとき勢いで捨てなきゃよかった……」
って、後からめちゃくちゃ後悔するの、もう懲り懲りじゃない?
アルバムでも、昔のぬいぐるみでも、手紙でも、その時は「邪魔だな」って思っても、数年経つと「あ、やっぱりあれ取っておけばよかったな」って切なくなったりする。
でも、だからといって今の生活スペースに無理やり押し込んでいたら、いつまで経っても部屋は片付かないし、心も休まらない。
そんな、
「捨てたくない、でも部屋も狭くしたくない」
っていう願いをスマートに叶えてくれる方法が、今の時代ちゃんと用意されています。
自分で汗水流してダンボールを運び出す必要もない、もっと現代的なやり方が。
自宅のクローゼットの延長として「minikura」に思い出を託すという生き方
それが、宅配型トランクルームの「minikura(ミニクラ)」なんです。
これ何がすごいって、ダンボールに思い出の品を詰めて送るだけで、あとはスマホ一つで管理できちゃうところ。
わざわざ遠くのコンテナまで車を走らせる必要もなければ、重い荷物を抱えて階段を昇り降りする必要もない。
私の部屋からは消えるけど、ゴミ箱行きになるわけじゃなくて、ちゃんとした専用の倉庫に「預けられる」。
月々のお値段も、コーヒー数杯分くらいの手頃さで、自分の部屋のクローゼットがそのまま何倍にも広がったみたいな感覚になる。
「あ、ここに預ければいいんだ」
って思えた瞬間、あれだけ頭を悩ませていたモヤモヤが一気にスーッと晴れていくのを感じた。
思い出を無理に殺して捨てなくてもいい。
自分の部屋の空気も、ちゃんと新しく生まれ変わらせることができる。
四次元ポケットがなくても、私の部屋と心は、ちゃんと軽やかにできるんだ!


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