その「小さな違和感」 見過ごしていませんか?
「90点だった!」
学校から帰ってきた子どもが、嬉しそうにテストを見せてくれた。
「すごいじゃん。よくできたね」
きっと、多くの家庭で交わされる会話だと思います。
もちろん、良い点を取ることは大切です。
漢字を覚えること。
計算ができること。
文章を読んで、その意味を理解すること。
学校で学ぶ知識や基礎的な力は、これから先、子どもが何かを学んでいくための土台になります。
だから、
「テストの点数なんて、どうでもいい」
という話をしたいわけではありません。
でも、あるときふと、こんなことを考えたことはないでしょうか。
「小学校の授業で良い点が取れれば、それで本当に十分なのかな?」
テストには、問題があります。
教科書があります。
先生が教えてくれます。
そして、多くの場合、その問題には「正解」が用意されています。
だから子どもは、
「どうすれば正解できるのか」
を考えることができます。
これは、とても大切な力です。
けれど、大人になったときも、いつも同じように「正解」が用意されているのでしょうか。
仕事をしているとき。
誰かと新しいものを作ろうとするとき。
これまで誰もやったことのないことに挑戦するとき。
あるいは、自分自身の人生について何かを決めるとき。
「この問題の答えはこれです」
と、誰かが教えてくれるとは限りません。
むしろ、
「どうしたらいいんだろう?」
と、自分で考えなければならない場面のほうが増えていくのかもしれません。
世の中には、そもそも答えが決まっていない問題がたくさんあります。
そう考えると、
「テストで90点を取れること」と、
「答えが分からない問題に出会ったとき、自分で考えて前に進めること」は、
もしかすると、少し違う力なのではないでしょうか。
この小さな違和感を、少しだけ考えてみたいと思います。
第1章 学校で「正解できる子」になりさえすれば良い?
「小学校の授業で良い点が取れれば、それで本当に十分なのかな?」
問題を読んで理解する。
計算する。
漢字を覚える。
知識を身につける。
教えられたことをきちんと理解して、正しい答えを出す。
これは、子どもがこれから何かを学んでいくうえで、とても大切な力です。
むしろ、何かを考えるためにも、ある程度の知識は必要になります。
知らないことについて考えることはできても、知っていることが増えれば、それだけ考える材料も増えていくからです。
だから、
「正解できる子になること」は、決して悪いことではありません。
では、何が問題なのでしょうか。
ここで、一つだけ分けて考えてみたいのです。
それは、
「正解を出す力」と「正解が分からないときに考える力」は、同じではない
ということです。
学校では、
「この問題の答えは何でしょう?」
と聞かれることがあります。
子どもは、覚えた知識や学んだ方法を使って答えを出します。
そして、正しければ○がつきます。
これは、とても分かりやすい世界です。
でも、
「答えが分からない」
というところから始まる問題だったら、どうでしょう。
教科書を見ても答えが載っていない。
先生も、最初から答えを教えてくれるわけではない。
そもそも、まだ誰も正解を知らない。
そんなときには、
「正解を知っているかどうか」
だけでは、前に進めません。
「どうしてだろう?」
「こうしたら、どうなるだろう?」
「別の方法はないかな?」
と、自分で考えてみる必要があります。
つまり、
「正解を出す力」と「正解が分からないときに考える力」。
この二つは、似ているようで少し違うのです。
そして、子どもの将来を考えるなら、どちらか一方だけではなく、どちらも大切なのではないでしょうか。
では、もし子どもが「正解の分からない問題」に出会ったとき。
その子の「間違った答え」は、本当にただの間違いなのでしょうか。
第2章 「間違った答え」の中に、価値が隠れているかもしれない
少し、こんな授業を想像してみてください。
先生が黒板に、子どもたちがまだ習ったことのない問題を書きました。
「この問題、どうやって解くんだろう?」
教室が少し静かになります。
教科書を開いても、同じ問題は載っていません。
先生も、すぐには答えを教えてくれません。
「まずは、自分で考えてみよう」
そう言われて、子どもたちは考え始めます。
ある子は、これまでに習った方法を組み合わせてみます。
「たぶん、こうすれば解けるんじゃないかな」
計算してみます。
でも、途中で数字が合わなくなりました。
「うーん。違うのかな」
別の子は、まったく違う方法を考えています。
図を書いてみる。
数字を入れ替えてみる。
「こうしたらどうなるんだろう?」
やってみます。
でも、やっぱりうまくいきません。
「じゃあ、こっちは?」
また別の方法を試します。
しばらくして、先生が言います。
「そろそろ答えを確認してみましょう」
子どもたちの答えを見ていくと、一人だけ正解していました。
「正解です。よくできました」
その子は嬉しそうです。
もちろん、正解したことには価値があります。
自分で考えて、答えを導き出したのですから。
でも、そこで少しだけ立ち止まってみたいのです。
正解できなかった子どもたちは、何もしていなかったのでしょうか。
最初の子は、習った方法を組み合わせました。
途中でうまくいかないことに気づきました。
別の子は、図を書きました。
うまくいかなければ、違う方法を試しました。
そして、また考えました。
結果だけを見れば、
「正解」と「不正解」
です。
けれど、その子たちが問題に向き合っていた時間まで、
「不正解」
だったわけではありません。
ここには、少し不思議なことがあります。
答えを知らないからこそ、
「こうかな?」
と考える。
やってみる。
うまくいかなければ、
「じゃあ、こっちはどうだろう?」
と考える。
そして、もう一度やってみる。
まだ答えにたどり着いていなくても、その途中には、その子なりの考えがあります。
もしかすると、先生が用意していた答えとは違う方法を考えていたかもしれません。
もしかすると、あと少し考えれば、別の方法で答えにたどり着いていたかもしれません。
あるいは、今は間違っていても、
「なぜ、うまくいかなかったんだろう?」
と考えることで、次に進むための何かを見つけられるかもしれません。
だから、
答えが間違っていたことと、その子が考えたことには、別々の価値があるのではないでしょうか。
もちろん、正解は大切です。
正しい答えを知ることも、間違いを直すことも大切です。
ただ、
「間違えたから終わり」
としてしまうのは、少しもったいない。
その間違いの中には、
「こう考えた」
「こう試してみた」
「ここまではうまくいった」
という、その子自身の思考の跡が残っています。
そして、もしかすると。
その中に、まだ本人も気づいていない「次の一手」が隠れているのかもしれません。
そう考えると、
「正解できたかどうか」
だけでは、見えないものがあるように思えてきます。
では、その「見えないもの」って何なのかを一緒に見ていきましょう。
第3章 「正解」だけを見ていると、見落としてしまうもの
先ほどの算数の授業を、もう少しだけ考えてみましょう。
先生が子どもたちの答えを確認したとき、目に見える結果ははっきりしています。
正解した子。
間違えた子。
テストの採点なら、それで十分なのかもしれません。
どこまで理解できているのかを確認するためには、答えが合っているかどうかも大切です。
でも、もし私たちが知りたいのが、子どもが何を考え、どうやって答えにたどり着こうとしたのか、ということだったら。
答えを見るだけでは、足りません。
同じ間違いでも、そこに至るまでの道筋は違うからです。
問題をよく理解できていなかった子もいるでしょう。
習った方法を思い出せず、途中で手が止まってしまった子もいるかもしれません。
一方で、問題の意味は理解していて、自分なりの方法を考え、最後まで試していた子もいるでしょう。
答案用紙に残る結果は、どれも「不正解」かもしれません。
けれど、その中身まで同じとは限りません。
なぜ、その答えになったのか。
途中で、どんな方法を試したのか。
どこまではうまくいって、どこから分からなくなったのか。
そして、もう一度挑戦できるとしたら、次はどう考えるのか。
こうしたことは、解答だけを見ていても分かりません。
結果には表れない、考える過程があるのです。
そして、これは子どもの勉強だけの話ではないように思います。
例えば、何か新しいものを作ろうとした人がいたとします。
最初に考えた方法では、うまくいかなかった。
そこで別の方法を試したけれど、今度は違う問題が起きた。
それでも、何がうまくいかなかったのかを考え、方法を変えて、もう一度挑戦する。
こうした過程を経て、ようやく形になるものもあるでしょう。
最終的に成功したかどうかだけを見れば、そこに至るまでの試行錯誤は見落とされてしまいます。
でも、その試行錯誤がなければ、たどり着けなかった結果かもしれません。
そう考えると、少し気になってきます。
私たちは普段、目に見える結果ばかりを見て、その裏側にある過程を見落としてはいないでしょうか。
そして、もう一つ。
子どもが学校で向き合う問題には、すでに答えが用意されています。
では、大人の世界ではどうなのでしょう。
社会にある問題にも、あらかじめ正解が用意されているのでしょうか。
それとも、大人たちもまた、答えが分からないところから考え始めているのでしょうか。
第4章 大人になったら、「正解」は誰かが教えてくれるのでしょうか?
ここまで、子どもの算数の問題について考えてきました。
では、少しだけ子どもの世界から離れてみましょう。
大人の世界には、どんな問題があるのでしょうか。
例えば、農業です。
日本にある農地を、できるだけ有効に使って農作物を作ってもらう。
農業を続けたい人が、安心して農業を営めるようにする。
一方で、農地が簡単に別の用途へ変わってしまえば、農地そのものが減ってしまいます。
では、
「農地で農作物を作ってもらうためには、どんな仕組みが一番いいのだろう?」
と聞かれたら、どうでしょう。
これには、算数の問題のような答えがあるでしょうか。
「答えは○○です」
と教科書を開けば書いてあるでしょうか。
たぶん、そう簡単ではありません。
例えば、
「農地を守るためには、農地を農業以外の用途へ簡単に転用できないようにすればいい」
と考えることができます。
それなら、農地は守られるかもしれません。
ところが、今度は別の問題が出てきます。
農業をやってみたいと思う人がいても、農地を自由に取得したり売却したりすることが難しければ、新しく農業に入っていくことに躊躇するかもしれません。
「農地を守りたい」
という一つの目的を優先したことで、
「農業を始める人を増やしたい」
という別の目的との間に、問題が生まれてきます。
では、どうするのでしょう。
今度は、
「農業を営む意思がある人には、農地を取得・利用しやすくしてはどうだろう」
と考えることができます。
すると、また別の問題が出てくるかもしれません。
「農業をするつもりだと言いながら、実際には農地を別の目的に使ってしまう人が出てきたら?」
そうなると、
「では、本当に農業をしたいのかを確認する仕組みが必要なのではないか」
という考えが出てきます。
実際に農業をしているのか。
農地がきちんと使われているのか。
必要な農機具や設備はあるのか。
場合によっては、現地を確認することも必要になるでしょう。
すると今度は、
「どこまで確認すればいいのか?」
という新しい問題が生まれます。
一つの問題を解決すると、今度は別の問題が顔を出す。
そこで、また考える。
仕組みを変える。
すると、また別の問題が見えてくる。
そして、また考える。
こうして考えてみると、社会の制度というものは、最初から完璧な「正解」を誰かが知っていて、それを社会に当てはめているわけではないのかもしれません。
もちろん、実際の制度はもっと複雑です。
農地をどう守るのか。
農業をどう発展させるのか。
新しく農業を始める人をどう増やすのか。
農地を誰に、どのように使ってもらうのか。
そこには、さまざまな立場や目的があります。
だからこそ、
「これが唯一の正解です」
とは簡単に言えません。
むしろ、
「今の状況では、これが一番よさそうだ」
と考え、実際に制度を動かしてみる。
すると、思っていなかった問題が見えてくる。
「では、どうすればいい?」
と考える。
そして、また仕組みを変えていく。
これは、先ほどの子どもたちがやっていたことと、少し似ていないでしょうか。
「この方法なら、うまくいくかもしれない」
と考える。
やってみる。
うまくいかなければ、
「なぜだろう?」
と考える。
そして、別の方法を試してみる。
違うのは、扱っているものの大きさだけです。
子どもは、一つの算数の問題に向き合っていました。
大人は、社会そのものを相手にしている。
でも、その根っこにあるものは、案外似ているのかもしれません。
答えが分からない問題に出会ったとき、考えて、試して、そこからまた考える。
社会を少しずつ良くしていくということも、そんな試行錯誤の積み重ねなのではないでしょうか。
第5章 世の中には、「正解のない問題」がたくさんある
農業の話をすると、
「でも、それは制度の話だから特殊なのでは?」
と思うかもしれません。
では、まったく違う世界を見てみましょう。
半導体です。
私たちが普段使っているスマートフォンやパソコンの中には、たくさんの半導体が使われています。
では、半導体を作る人たちは、最初から、
「この大きさにして、この材料を使えば、これだけ速く動きます」
という答えが既に有ると知っていたのでしょうか。
もちろん、そんなことはありません。
技術が進めば、
「もっと小さくできないだろうか?」
「もっと速くできないだろうか?」
「もっとたくさんの機能を入れられないだろうか?」
という新しい問いが生まれます。
そこで、方法を考える。
実際に作ってみる。
すると、思ったように動かない。
小さくしたことで、別の問題が起きる。
熱の問題が出るかもしれない。
製造すること自体が難しくなるかもしれない。
「小さくすればいい」
と思っていたのに、そう簡単ではないことが分かります。
では、どうするか。
材料を変えてみる。
構造を変えてみる。
製造方法を変えてみる。
また試す。
うまくいかなければ、また考える。
そして、少し前に進む。
すると、また新しい問題が出てくる。
「もっと小さくできないだろうか?」
という問いに、一度答えを出したと思ったら、その答えが次の問いを生み出してしまうのです。
これは、先ほどの農業の話と少し似ています。
農業では、
「農地を守るにはどうすればいい?」
と考えました。
半導体では、
「もっと小さく、もっと高性能にするにはどうすればいい?」
と考える。
扱っているものは、まったく違います。
農地と半導体。
土とシリコン。
農業政策と最先端の技術。
それでも、そこには不思議な共通点があります。
最初から答えを知っているわけではない。
だから、まず考える。
やってみる。
すると、思っていなかった問題が出てくる。
そこで、また考える。
そして、もう一度試す。
つまり、
「答えを探している」というより、「試行錯誤しながら答えを作っている」
とも言えるのではないでしょうか。
学校の問題では、
「この問題には、すでに正しい答えがあります」
ということが多い。
だから、正しい方法を学び、その答えにたどり着く方法を学びます。
でも、社会にある問題の中には、
「そもそも、どんな答えが正しいのか分からない」
ものがあります。
もっと言えば、
まだ誰も答えを知らない。
だからこそ、
「とりあえず、こうしてみよう」
というところから始めるしかありません。
そして、やってみた結果から、
「これはうまくいかなかった」
「ここは思ったより良かった」
「ならば、次はこうしてみよう」
と、少しずつ答えに近づいていく。
私たちが今「当たり前」だと思っている技術や仕組みの中にも、そんな試行錯誤の跡がたくさん残っているのです。
そう考えると、
「間違えないこと」だけが、前に進む方法ではないことに気づきます。
分からない。
だから考える。
やってみる。
うまくいかなかった。
だから、また考える。
この繰り返しによって、人はまだ存在しない答えを少しずつ作ってきたのではないでしょうか。
第6章 だから必要なのは、「間違えない力」だけではない
ここまで、農業の仕組みや半導体の技術について見てきました。
どちらも、最初から「これが正解だ」と分かっていたわけではありません。
考えてみる。
やってみる。
すると、思っていなかった問題が起きる。
そこで、もう一度考える。
世の中では、そんなことが何度も繰り返されています。
では、起きてしまった「問題」や「失敗」を、どう扱えばいいのでしょうか。
ここで、トヨタの「改善」という考え方を少し見てみたいと思います。
トヨタの生産現場では、仕事をしている中で問題が見つかれば、そのままにせず、
「なぜ、こんなことが起きたのだろう?」
と考えます。
たとえば、ある作業に時間がかかっている。
部品を取りに行くために、何度も歩かなければならない。
そこで、
「もっと近くに置いたらどうだろう?」
と考えて、実際に配置を変えてみる。
すると、今度は別の問題が見えてくるかもしれません。
では、また考える。
やってみる。
うまくいかなければ、また変えてみる。
大切なのは、最初から完璧な方法を知っていることではありません。
問題が起きたときに、その問題を「次にどうするか」を考える材料にできることです。
これは、学校のテストとは少し違います。
テストでは、
「間違えないこと」
が良い結果につながります。
もちろん、それは大切なことです。
でも、世の中に出てみると、どれだけ注意していても問題は起こります。
思った通りにいかないこともあります。
やってみたら、うまくいかなかった。
予想とは違う結果になった。
そこで、
「失敗したから不合格」
としてしまうのか。
それとも、
「なぜ、うまくいかなかったんだろう?」
と考えるのか。
この違いは、意外と大きいのかもしれません。
失敗しない人になる。
それだけを目指していたら、失敗した瞬間に立ち止まってしまいます。
でも、
「うまくいかなかったら、そこから考えればいい」
と思えていたら、もう一度やってみることができます。
そう考えると、必要なのは「間違えない力」だけではないのだと思います。
間違えたときに、そこから次の一手を考える力。
それもまた、これからの社会を生きていくうえで、大切な力なのではないでしょうか。
第7章 「失敗」は、本当に失敗なのだろうか?
ここまで、大人の世界を見てきました。
農業では、社会の仕組みをどうするかを考える。
半導体では、まだ存在しない技術をどう作るかを考える。
トヨタでは、現場で起きた問題をどう改善するかを考える。
どれも、最初から用意された答えがあったわけではありません。
やってみなければ分からない。
やってみたからこそ、分かることがある。
そして、そこから次の方法を考えていく。
そんな世界でした。
でも、ここまで読んで、
「それは大人の仕事の話でしょう?」
と思われたかもしれません。
確かに、そうです。
農業も、半導体も、工場の改善も、小学生の子どもには少し遠い世界です。
では、最初に出てきたあの算数の問題はどうだったのでしょうか。
もう一度、あの教室を思い出してみてください。
先生から、まだ習っていない問題を出された子どもたち。
ある子は、知っている計算方法を組み合わせてみた。
別の子は、図を書いて考えてみた。
数字を変えてみた子もいた。
そして、答えを書いた。
結果として、間違っていた子もいました。
テストだったら、
「×(バツ)」
がつく答えです。
それだけを見れば、間違いです。
でも、その子は何もしていなかったのでしょうか。
違います。
その子は、自分なりに考えていました。
「こうすれば解けるかもしれない」
と思って、実際にやってみた。
そして、うまくいかなかった。
だったら、その「うまくいかなかった」という結果は、本当にただの失敗だったのでしょうか。
大人の世界では、同じようなことが起きていました。
農業でも。
半導体でも。
トヨタの現場でも。
最初に考えた方法が、そのままうまくいくとは限らない。
だから、結果を見て、
「じゃあ、次はどうしよう?」
と考える。
そうやって、少しずつ前に進んでいく。
そう考えると、あの教室にいた子どもも、実は同じだったのかもしれません。
もちろん、子どもと企業では、規模も目的もまったく違います。
でも、
「分からないから、自分なりに考えてみる」
ということだけを見れば、そこには不思議なくらい似たところがあります。
そして、ここで少し見方が変わります。
今までなら、
「この子は答えを間違えた」
と見ていた場面が、
「この子は、まだ答えにたどり着いていないけれど、考えている途中なのかもしれない」
と見えてくるからです。
間違いを直すことは大切です。
正しい答えを知ることも大切です。
ただ、その前にある、
「なぜ、そう考えたのか」
「どこまで自分で考えたのか」
「次はどうしてみようと思ったのか」
にも、目を向けてみる。
すると、「間違った答え」の中に、これから伸びていくものが見えてくるかもしれません。
そう考えると、
「失敗」は、本当に失敗なのでしょうか。
もしかすると、それは、
「まだ答えにたどり着いていない」
というだけなのかもしれません。
第8章 「もし成功したら?」と考えられる人は、未来を変えられる
ここまで見てきた話には、ある共通点がありました。
うまくいかないことが起きる。
そこで、
「なぜだろう?」
と考える。
そして、次の方法を試してみる。
これは、とても大切な考え方です。
でも、考える方向は、それだけなのでしょうか。
もう一つ、こんな問いもあります。
「もし、うまくいったら?」
たとえば、スタートアップと呼ばれるような新しい会社を考えてみてください。
まだ誰も当たり前だと思っていないサービスを、
「こんなものがあったら、世の中はどう変わるだろう?」
と考えるところから始まることがあります。
もちろん、最初からうまくいくとは限りません。
実際に作ってみる。
使ってもらう。
すると、
「思ったほど使われない」
「ここは分かりにくい」
「この機能は必要なかった」
といった問題が出てくる。
そこで、また考える。
作り直す。
もう一度試す。
そうやって、最初は頭の中にしかなかったものが、少しずつ形になっていきます。
ここで大切なのは、
「失敗したらどうしよう?」
と考えることだけではありません。
「もし成功したら、何が変わるだろう?」
と考えてみることです。
失敗を想像すれば、危険に備えることができます。
これは、とても大切です。
けれど、成功した未来を想像すれば、
「では、そこへ行くには何を試せばいいだろう?」
という発想が生まれます。
同じ「まだ分からない未来」を見ていても、考える方向が少し違うのです。
「失敗したらどうする?」
と考える人。
そして、
「もし成功したら、何が変わる?」
と考える人。
どちらが正しい、という話ではありません。
どちらも必要です。
危険を考える人がいるから、無理なことを避けられる。
可能性を考える人がいるから、今までになかったものを試せる。
そして、実際にやってみれば、当然うまくいかないこともあります。
そのときは、また考えればいい。
そう考えると、
「未来を考える」ということは、未来を正確に予測することではないのかもしれません。
「こうなったら面白い」
「こんなものがあったら便利かもしれない」
「もし本当にできたら、何が変わるだろう?」
そんなところから始めてみる。
そして、実際に試してみる。
うまくいかなければ、考え直す。
うまくいけば、その先を考える。
そうやって、まだ見えていない未来に少しずつ近づいていく。
考えてみれば、子どもが何かを作って遊んでいるときにも、似たことが起きています。
「ここにこれを置いたら、どうなるかな?」
「もっと大きくしたら?」
「こうしたら、面白そう」
やってみる。
壊れる。
作り直す。
今度はうまくいく。
そして、
「じゃあ、次はどうしよう?」
となる。
もしかすると、
「もし成功したら?」と考えることも、正解のない問題に向き合うための、大切な一歩なのかもしれません。
第9章 子どもに「起業家になってほしい」という話ではありません
ここまで、いろいろな世界を見てきました。
最初は、小学校の算数でした。
そこから、農業の仕組みを考えました。
半導体の技術についても考えました。
トヨタの現場にある「改善」という考え方も見てきました。
そして、スタートアップの世界では、
「もし、こんなものがあったら?」
というところから未来を考える姿も見てきました。
こうして並べてみると、ずいぶん違う話です。
算数の問題と農業。
農業と半導体。
半導体と工場。
工場とスタートアップ。
もう一度、それぞれの場面を思い出してみてください。
分からない。
だから、考えてみる。
やってみる。
思った通りにはいかない。
では、どうする?
もう一度考えてみる。
そして、またやってみる。
形は違っていても、そこにはどこか似た動きがあります。
農業なら、ある制度を作れば別の問題が出てくる。
では、どうするか。
半導体なら、小さくしようとすれば別の技術的な問題が出てくる。
では、どうするか。
工場なら、作業を改善すれば別の問題が見えてくる。
では、どうするか。
スタートアップなら、思い描いたサービスを作ってみたら、思ったように使ってもらえない。
では、どうするか。
そして、最初の算数の子どもも同じでした。
まだ習っていない問題を前にして、
「こうすれば解けるかもしれない」
と考えてみた。
やってみた。
でも、答えは違っていた。
そこで終わることもできる。
けれど、
「じゃあ、どこが違ったんだろう?」
と考えることもできる。
こうして見ると、あの子どもの「間違った答え」が、少し違って見えてきませんか。
もちろん、子どもに農業の制度を考えさせたいわけではありません。
半導体を発明してほしいわけでもありません。
トヨタのような会社を作ってほしいわけでもありません。
まして、
子どもに起業家になってほしい、という話でもありません。
起業家になる人がいればいい。
研究者になる人がいてもいい。
会社員になる人もいる。
農業をする人もいる。
教師になる人もいる。
どんな道に進むかは、その子自身が決めていけばいいと思います。
大切なのは、職業ではありません。
その先で、
「答えが分からない」
という場面に出会ったときです。
誰かが正解を教えてくれるまで待つのか。
それとも、
「分からないけど、ちょっと考えてみよう」
と思えるのか。
「やってみたけど、うまくいかなかった」
となったとき、
「自分には無理だ」
と終わるのか。
それとも、
「じゃあ、次はどうしてみよう?」
と考えられるのか。
農業も、半導体も、トヨタも、スタートアップも、そしてあの算数の子どもも。
それぞれの世界でやっていることは、もちろん違います。
でも、
「分からないところから、自分で考えて一歩を踏み出す」
という経験には、共通するものがあります。
私たちが子どもに身につけてほしいのは、特別な職業のための能力ではなく、こういう力なのではないでしょうか。
第10章 では、家庭で「正解のない問題」をどう経験させればいい?
ここまで、少し大きな話をしてきました。
農業の仕組み。
半導体の技術。
トヨタの改善。
スタートアップが描く未来。
どれも、私たちの普段の生活からは少し遠い話に感じるかもしれません。
では、家庭ではどうでしょうか。
実は、もっと身近なところにも、同じような場面があります。
たとえば、子どもが段ボールで何かを作っているとします。
何を作っているのか聞いてみると、
「ここをもっと高くしたい」
と言う。
そこで、段ボールを積み上げてみる。
少し高くなった。
でも、
グシャ。
倒れてしまう。
子どもは、しばらく倒れた段ボールを見ています。
そして、
「なんで倒れたんだろう?」
と考える。
土台が小さかったのかもしれない。
じゃあ、今度は下をもっと広くしてみよう。
少し形を変える。
もう一度、積み上げてみる。
また倒れるかもしれません。
今度は、別の方法を考えるかもしれません。
大人から見れば、ただ段ボールを積んで遊んでいるだけです。
でも、この中で子どもは、自分なりに考えています。
「こうしたら、もっと高くできるかもしれない」
と試してみる。
うまくいかなかった。
そこで、
「じゃあ、どうしよう?」
と考える。
そして、もう一度やってみる。
ここまで見てきた農業も、半導体も、トヨタも、スタートアップも。
実は、やっていることは少し似ていたのではないでしょうか。
もちろん、規模はまったく違います。
社会の仕組みを変えることと、段ボールを高く積むことは問題のレベルが違います。
でも、
「こうしたらどうなるだろう?」
と考えて、
実際にやってみる。
その結果を見て、
「じゃあ、次はどうしよう?」
と考える。
その小さな経験なら、家庭の中にもあります。
特別な教材がなくてもいい。
立派な課題を用意しなくてもいい。
子どもが何かを作っている。
何かを試している。
何度もやり直している。
そんな姿を見つけたとき、
「正しいやり方を教えなきゃ」
と急いで答えを教えるのではなく、
少しだけ待ってみる。
そして、
「どうしてそうしたの?」
「次はどうしてみる?」
と聞いてみる。
それだけでも、子どもが自分で考える時間は生まれます。
もしかすると、私たちが家庭でできることは、特別な「正解のない問題」を作ることではないのかもしれません。
すでに子どもの目の前にある、
「なんでだろう?」
「こうしたらどうなる?」
という小さな疑問を、そのまま大切にしてあげること。
そこから始めてもいいのだと思います。
第11章 「勉強させる」のではなく、「夢中になって考える時間」を作る
ここまで読んで、
「じゃあ、家庭でも子どもに『考える力』を身につけさせなければ」
と思われたかもしれません。
でも、少し待ってください。
子どもは、私たちが思っている以上に、普段から考えています。
たとえば、ブロックで遊んでいるとき。
「もっと高くしたい」
と思って積み上げていく。
倒れる。
「じゃあ、下を太くしてみよう」
と変えてみる。
また倒れる。
今度は別の形にしてみる。
大人から見ると、ただ遊んでいるだけかもしれません。
でも、本人にとっては、けっこう真剣です。
工作でも同じです。
「ここに穴を開けたら面白そう」
と思ってやってみる。
思ったようにならない。
紙を変えてみる。
大きさを変えてみる。
もう一度作ってみる。
絵を描いていて、
「なんか違う」
と思えば、色を変えてみる。
パズルなら、合わないピースを置き直す。
実験なら、
「こうなると思ったのに」
と結果を見て、別のやり方を試す。
ゲームなら、
「この方法では勝てない」
と分かって、作戦を変える。
どれも、勉強としてやっているわけではありません。
でも、子どもが夢中になっているときには、
「こうしたらどうなるだろう?」
という問いが自然に生まれています。
そして、やってみる。
でも思った通りにならない。
では、どうするか。
また試してみる。
その繰り返しです。
もちろん、
「遊んでいれば勉強なんてしなくてもいい」
というわけではありません。
学校で学ぶ知識も必要です。
計算できることも大切です。
文章を読めることも、正しい答えを出せることも大切です。
ただ、それとは別に、
夢中になって何かを試している時間そのものにも、子どもが自分で考える経験が含まれている
ということです。
だから、家庭で「思考力を鍛える時間」をわざわざ作らなければならない、と考えすぎなくてもいいのかもしれません。
子どもが何かに夢中になっている。
何度もやり直している。
うまくいかなくても、また試している。
そんな時間があれば、
「何を考えているんだろう?」
と少しだけ見てみる。
もしかすると、その中には、学校のテストだけでは見えにくい、
「自分で考えて、自分で試してみる」
という経験が、たくさん詰まっているのかもしれません。
大切なのは、遊びを勉強に変えることではありません。
夢中になっている時間を、無理に「学び」に変えなくてもいい。
ただ、その時間の中で子どもが何を考え、何を試しているのかを、私たち大人が口出しせず見守る。
それだけでも、見えてくるものがあるのではないでしょうか。
第12章 遊びながら「考える・試す・つくる」を経験できる教材という選択肢
ここまで読んで、
「子どもが夢中になっている時間を大切にすればいい」
ということは分かった。
でも、毎日の家庭生活の中で、それをずっと用意するのは簡単ではありません。
子どもが夢中になれるものを毎回考える。
材料を用意する。
「今日は何を作ろう?」と一緒に考える。
それを毎日続けるとなると、親にとっても負担になります。
そもそも、
「子どもが自分からやってみたいと思えるものって、何だろう?」
と悩むこともあるでしょう。
そんなときの一つの選択肢として、WonderBox(ワンダーボックス)のような教材があります。
WonderBoxは、いわゆる「問題を解いて正解を出す」ことだけを目的にした教材とは少し違います。
届いたものを見て、
「これ、どうするんだろう?」
と考える。
やってみる。
思ったようにならない。
「じゃあ、こうしたらどうかな?」
と試してみる。
そうした体験が自然に生まれるように、さまざまなコンテンツが用意されています。
もちろん、すべての子どもが同じように夢中になるとは限りません。
すぐに興味を持つものもあれば、
「これはあまり好きじゃない」
というものもあるでしょう。
それでいいのだと思います。
大切なのは、親が毎回「考える問題」を作ってあげることではありません。
子どもの前に、
「ちょっとやってみたい」
と思えるものがあり、
そこから自分で手を動かしてみる。
その途中で、
「なんでだろう?」
「こうしたらどうなる?」
という疑問が生まれる。
そんなきっかけが、日常の中にあることです。
WonderBoxを選ぶ理由があるとすれば、私はそこにあると思います。
「思考力を鍛えるために、子どもに勉強させる」
というより、
子どもが自分から「やってみたい」と思える環境を、家庭の中に用意する。
そのための一つの選択肢として考えてみる。
それなら、これまで見てきた話とも自然につながります。
農業でも、半導体でも、トヨタでも、スタートアップでも。
そして、段ボールで何かを作っていた子どもも。
最初から正解を知っていたわけではありません。
「やってみたい」
という小さな気持ちから始まり、そこから考え、試して、また次を考えていました。
WonderBoxが提供できるのも、答えそのものではなく、
「ちょっとやってみようかな」
と、子どもが最初の一歩を踏み出すきっかけなのではないでしょうか。
第13章 ワンダーボックスで育てたいのは、「正解」ではなく、その先にあるもの
ここまで読んでいただくと、
「では、WonderBoxをやれば、考える力が身につくの?」
と思われるかもしれません。
でも、私は少し違うと思っています。
WonderBoxをやること自体が、ゴールなのではありません。
大切なのは、その中で子どもにどんな時間が生まれるかです。
たとえば、
「なんでだろう?」
と思う。
「こうしたら、どうなる?」
と考える。
実際にやってみる。
思った通りにならない。
「じゃあ、次はどうしよう?」
と、また考える。
そんな時間です。
もしかすると、すぐに正解が分かることもあるでしょう。
反対に、
「全然分からない」
となることもあるかもしれません。
途中で飽きてしまうことだってあるでしょう。
それでも、
「自分でちょっと考えてみた」
という経験は残ります。
そして、次に似たような問題に出会ったとき、
「前にもこういうことがあったな」
と思えるかもしれません。
これは、答えをたくさん覚えることとは少し違います。
「分からないから、誰かに教えてもらおう」
だけではなく、
「分からないけど、まず自分でやってみよう」
と思えること。
その違いは、子どもが大きくなったときに、少しずつ効いてくるのではないでしょうか。
もちろん、正しい答えを知っていることは有利です。
知識は物事を判断するときの有利な武器として働きます。
その為の知識を先生に教えてもらうのです。
誰かのやり方を真似することも、大切な学びです。
だから、
「自分で考えること」と「人から教えてもらうこと」を対立させる必要はありません。
ただ、その中に、
「まず、自分で考えてみる」
という時間があってもいい。
WonderBoxを使う意味があるとすれば、私はそこにあると思います。
教材を終わらせることでも。
正解することでも。
「思考力が○○伸びた」と数字で測ることでもありません。
その先にある、
「なんでだろう?」
「こうしたらどうなる?」
「じゃあ、次は?」
という小さな問いを、自分の中から生み出す経験です。
そして最後には、
「正解を教えてもらう」のではなく、「自分で考えてみる」。
そんなことが、当たり前になっていけばいい。
WonderBoxは、そのための一つのきっかけなのだと思います。
最終章 テストの点数だけでは測れない、「これからの力」を育てるために
もう一度、最初の子どものところへ戻ってみたいと思います。
「90点だった!」
嬉しそうにテストを見せに来た子ども。
そのとき、きっとこう言うでしょう。
「90点。すごいね。」
頑張った結果を、一緒に喜ぶ。
それでいいのだと思います。
90点は、90点です。
一生懸命勉強したからこそ取れた点数です。
覚えたことをきちんと使えた結果です。
だから、良い点を取ったことを喜ぶ。
ただ、もしそこで、もう一つだけ聞いてみたらどうでしょう。
「この問題、どうやって考えたの?」
正解したことだけではなく、
「どう考えて、その答えにたどり着いたのか」
にも目を向けてみる。
すると、今までとは少し違ったものが見えてくるかもしれません。
すぐに分かったのか。
何度か考え直したのか。
別の方法を試したのか。
途中で間違えたけれど、やり直したのか。
同じ90点でも、そこへたどり着くまでの道のりは、きっと一人ひとり違います。
そして、本当に大切なのは、90点を取れなかったときかもしれません。
答えが分からない。
何をすればいいのかも分からない。
誰かに聞いても、すぐには答えを教えてもらえない。
そんな問題に出会う日が、いつか来ます。
そのとき、
「分からないから、やめよう」
となるのか。
それとも、
「分からないけど、ちょっと考えてみよう」
となるのか。
やってみたけれど、うまくいかなかった。
そのとき、
「やっぱり無理だった」
で終わるのか。
それとも、
「じゃあ、次はどうしてみよう?」
と考えるのか。
学校のテストには、答えがあります。
だから、正しい答えを出す力は大切です。
でも、大人になれば、答えが用意されていない問題にも出会います。
仕事でも。
人間関係でも。
社会でも。
自分自身の人生でも。
「これが正解です」
と、誰かが教えてくれるわけではありません。
そんなときに必要になるのは、正解を知っていることだけではないはずです。
分からないところから、自分で考えてみること。
やってみること。
うまくいかなければ、もう一度考えること。
そして、
「じゃあ、次はどうしてみよう?」
と、もう一歩踏み出すこと。
それは、特別な才能ではないと思います。
小さな遊びの中でも。
何かを作っているときでも。
学校の勉強をしているときでも。
子どもは、そうした経験を少しずつ積み重ねていくことができます。
だからこそ、私たち親ができることも、案外シンプルなのかもしれません。
正解を急いで教えるだけではなく、
「どう考えたの?」
と聞いてみる。
うまくいかなかったときには、
「じゃあ、どうしてみようか?」
と、一緒に考えてみる。
そして、子どもが自分で考えようとしている時間を、少しだけ待ってあげる。
それだけでもいいのだと思います。
90点を取れる子に育てる。
それは、とても大切なことです。
でも、それだけではなく、
答えが分からない問題に出会ったとき、自分で考えて前に進める子。
そんな子どもになってくれたら。
きっと、これから先の世界で出会う「正解のない問題」にも、自分なりの答えを探していけるのではないでしょうか。
「分からないから、やめよう」
ではなく、
「分からない。
じゃあ、どうしてみよう?」
そんなふうに考えられる人になってくれたら。
私は、それもまた、子どもに渡してあげられる大切な力なのだと思います。



コメント